アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.25




D&GRN鉄道のほうは、クレメンタイン支線を潜る「プロスペクターズ・クリーク」(山師川)の流れに流木と人形を配し、とりあえずの完成、としました。

私の造るものは、すべて、いつでも「とりあえず完成」です。先に未知の可能性を残しておきますと、いつも「さらに良くならないか?もっと楽しくできないか?」と、日々眺めながら考えますので、「飽きが来る」ということがありません。

「よく飽きませんね」とか「飽きる事はないんですか?」とかいわれる事はありますが、作業が長丁場に亘って、うんざりすることはあっても、「まだまだ、佳くできるはずだ」と思っているので、「飽きる」ということは、知らずに来ているのでしょう。

よく「満つるは欠くるの始まり」といい、落語には「あまり結構すぎると魔が差す」なんというセリフも出てきます。歴史にも、身の回りの世間にも、そういう例はたくさんあります。気短に欲張るものではありません。

三遊亭円生の「左甚五郎」という落語には、枕の一節に「京都の知恩院も甚五郎の作で名建築といわれますが、あまり結構過ぎて魔が差すといけないというので、屋根に瓦が別に二枚載せてある。あれは、まだ工事中という意味だそうで、決して完成したわけでない、とわざわざ断っている、という‥」という語りが入りますが、人のもの作りはすべからく、そうした「瓦、あと二枚分の将来」に期待を残すのがいい、という知恵と思って、私は、この話が大好きです。

簡単な例では、草植えなども、「今はこれで、現在の自分のベストは尽くしたが、まだもっと実感的な表現方法や材料に出会うはずだ」と目配りを怠らなければ、一つのレイアウトも年々成長し、自分が生きている限り、いつまでも新鮮でいられるはずではないでしょうか?だからレイアウト造りは、ダラダラゆっくり、がいいのです。なまじ「開通式」などやらないほうが正解ではないかと思います。

日本のレイアウトが概して短命なのは、完成を急ぐから、というのが大きなファクターではないか、と私は観察していますが‥

今回のクレメンタイン支線の製作再開で、草植えに面白い発見がありました。

このあたりは、30年以上前に一度作りかけたので、その当時なりに、津川洋行の着色おがくずで、結構まめに小雑草が植えてあったのです。今回、そこに「ミニネイチャー」を中心にした最新の材料で再度草植えをしたのですが、褪色や埃で目立たなくなっていた30年前の草が造っている陰翳が加わる事で、草むらの奥深さ、ボリューム感が、全く新しい地面に最新のマテリアルで草植えするより、はるかに出るのです。実物の草むらでは、必ず、古い株の枯れたのや、下ばえがありますが、その生命サイクルをトレースすることになるのです。

草むら一つをとっても、こうした積み重ねが景色を膨らませますから、レイアウトでもセクションでも、「一度作って終わり」ということは決して無いですね。まさに「自分の分身」なのかもしれません。「分身」と思えば、飽きるはずもありませんね。

写真は、アスペン砂利会社のシェイがダンプカーを牽いて、「山師川」の流れに足を浸そうとしているところです。川原には、釣り人や砂金取りの影がちらほら。木橋を、クレメンタイン発の午後のローカルが渡っていきます‥

人形を点在させただけで、川に奥行きが感じられるようになりました。こういう、思わざる効果がレイアウト造りの愉快です。