アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.49


秋の夜。私の一番好きな季節と時間帯の組み合わせです。おかげさまで、通りを挟んで向かいは大学のキャンパスの裏側で、欅などの大木が並ぶ、一種の杜のような場所になっているので日暮れからあとは虫の音が絶えません。

しかし、耳を澄ませていると、小さな一匹がよく長い時間鳴き続けて、それがまたよく通りますね。沢山が同時に鳴いているでしょうに、その中の一匹のが耳につくと、その個体の音が他を圧して聞こえ続けるのは不思議です。

こういう夜に独りでいると、何といっても高校時代からあちこちで眺め、写した夜の蒸機を思い出します。

そもそも私の商業鉄道誌での最初の発表作品が鉄道ジャーナル誌の第3号に出た平機関区のC62の夜景でしたから、ことのほか蒸機の夜景には縁があったのかもしれません。

なにしろ真っ暗に近い夜の構内で真っ黒な蒸機を写そうというのですから、当時のセレン式という簡単な露出計しかない時代には容易ではありません。それも写真のプロセスには大した知識もない高校生です。「夜の蒸機の写し方」などという記事もありませんでした。平以前にも、梅小路機関区に泊り込んでの最後のC51から始まって、試行錯誤を重ねながら、やはり平で場数を踏んで、自分なりのやり方ができていき、「闇夜のカラス」がなんとか肉眼以上にはっきりした像に写るようになったのです。

コツは照明の光芒がきれいにまとまる絞り値と、数十秒から数分、シャッターを開いている間に蒸気や煙が車体に被らない風向きの読みですね。ですから、やたらにシャッターを押しまくればいい、というものでないのが蒸機の夜撮なのです。

北海道から九州まで、遠くはドイツ、オーストリーでも夜の機関区、駅で昼間はまず使わない三脚をずいぶん立てましたが、思い出深いのは台湾の阿里山機関庫での撮影です。当時の阿里山山頂は麓から電気が来ておらず、夜9時を過ぎると集落の発電機が止まり、あとは鉄筋のホテルでさえも懐中電灯かろうそくが頼りになってしまうのです。そんな時間に機関庫にいっても、肝心のシェイがどこにいるのかもよく見えない。ましてや明るさが落ちるカメラのファインダー越しでは、どこからどこが車体の頭なのか尻尾なのか、ピントは合っているのか、全くもわからない始末です。

そこで一計を案じました。駅前の食堂へ走ってろうそくを借りてきて、それを機関車の3隅に立てたのです。その炎にフレーミングとピントを合わせたらろうそくを撤去してシャッターを開け、補助のストロボの空焚きで反射を入れるのです。1カット写すのに露光が10分から20分。空を一杯入れると星の動きが光跡を描きました。真っ暗闇に浮かぶ3本のろうそくの炎にピントを合わせる。あれはちょっと不気味な撮影でしたね。

1枚を写すのにそうして時間の掛かる夜間撮影ですが、長くシャッターを開けている分、立ち尽くして罐を見つめているわけですから、おのずと1台をじっくりと眺める事になり、そこで印象が深まるのでしょう。秋の夜になると、そうした夜撮の思い出がまず心に浮かぶのも、そのためかもしれません。

実物の撮影、といえば、つい先日、ある方に「松本さんの鉄道写真は最初、誰の作品を手本にしたのか?」と訊かれました。

私の場合、実物を自分で写し始める前に、模型のイメージを求めて内外の相当数の写真、特に米国の写真の好いのをかなり見ていましたから、現場ではそうした、頭の中に蓄積された構図をケースバイケース、TPOで取り出したりミックスしたりしながら、構図や光線を選びました。

その中で、一番影響を受けたといえば、日本では臼井茂信氏の列車写真の、やや低いアングル(腰ダメの6x6判カメラではそうなる)からの中望遠の使い方、米国では、この5月になくなった天才、リチャード・スタインハイマー氏の、定型に嵌めない、しかも画面全体でドラマを語ろうとする写し方とそのドラマ性を際立たせるように持っていく光線の掴み方。この二方の作風は常に頭にありました。

それに加わったのが、高校2年でニコンFを使い始めた直後、同社の広報誌で広告を見て予約購入した、ディヴィッド・ダンカンの写真集。この人は鉄道写真でなく、『ライフ』の専属カメラマンとして第2次大戦から朝鮮戦争、そのほか世界中の動乱や祭典を写した米国人ですが、その光線の取り方や動感の描写、人物の構図もずいぶん応用しました。人物の用い方ではスタインハイマーの作品からも多く学びましたし、のちにはフランス印象派絵画のドガ、モネの、人物への光の当て方も使っています。

それから、廃車体を積極的にモチーフに取り上げるのは、60年代後半に米国の鉄道写真界に彗星の如く登場した新人ロン・ジールから、深い霧やたそがれの微光の中に機関車の陰を浮かび上がらせる描写はドイツのミカエル・ハルトマン、列車を遠目に置いてシルキーなタッチで見せるやり方は英国の写真集から、など、多様な作品に触発されています。建物の取り入れ方は、西洋映画からもかなり学んでいると思います。

もっと基本的にはハイライトの入れ方。これは父の油絵の師匠が井出宣通という、のちに芸術院会員に選ばれた人でしたが、フランス印象派、特にドガ、モネ、セザンヌあたりを手本にした人でしたので、そのハイライトの入れ方というのが、父の描く絵にも流れているし、そういうものを目にする機会が小さい頃からあって、「画像の描写を活かすのはハイライトの入れ方」というのは染み付いていたのでしょう。ハイライトの入れ方では仏像写真からも学んだのは確かです。

ですから、先日書いた「撮影ポジションの選び方」でも、「どこに立ったら列車の輪郭にハイライトが入るか」を周囲の風景の反射から読めば、それから逆算して、どちらへ脚を向けるべきか、が連動するように、いつのまにか出来上がったのかもしれません。

なぜ離れた地点からでも構図が読めるようになったのか、先日来自分でも考えていたのですが、可能性としてはレイアウトの図面ですね。目の前の地形を上から見たレイアウト図面に直してみて、そこへ光線の来ている方向を入れると、模型にすればどう見えるかが解かる。それがレイアウト・モデラーならではの演算なんでしょう。

結局、私の場合、実物写真の撮影経験はレイアウト製作に役立ち、レイアウト製作の経験もまた実物撮影に役立っているのでしょう。

レイアウトといえば、ジョン・アレンのレイアウト写真を例の写真集(FABに在庫)で仔細に点検すると、ほとんどはベタな順光線では撮っておらず、斜光線や時には逆光線まで使って、地形や車輛の輪郭にハイライトを入れているのがわかります。一時期、第2次レイアウト(自宅の移転で廃棄された)の時代だけベタな順光線で撮っていますが、この時代のG&D鉄道は「別人の作か?」と思うほど、精彩を欠いています。

ジョン・アレンから入っても、スタインハイマーから入っても、立体のドラマチックな描写とはすなわち「光の掴み方」なんですね。私はどうも、そういう気がします。細密以前に輪郭をどう見せるか、が問題ではないでしょうか?中尾豊氏も「日本でレイアウトを造る人のほとんどが照明の当て方、というのを考えないが、あれはおかしい」とつねづねおっしゃっています。

たしかに、私のレイアウトでも、同じ部分に照明の当て方だけを変えてみると、それだけで立体的にも、平板でつまらなくにも見えます。

アメリカ型鉄道模型・連載コラム『モデルライフ』 Vol.47



自分でも不思議な能力、というか本能に近い行動は、鉄道写真を撮るときに、ほとんど瞬時に、自分がカメラを構えるべき地点を半径1m以内に絞って決められることです。

たとえば、今回の撮影ツアーのように列車である未知の地点に運ばれて、「次はここで撮るから降りろ」といわれても、乗降デッキに立ってあたりを見回した瞬間、バックと光線を読んで、足を運ぶべき地点が「あの草むらの右角がベスト」とか「あの窪地にかがめば、こう撮れるはず」とか、仕上がりの構図が見えて、そこへ直行して98%以上、思惑と外れません。

ですから、地上へ降り立って歩き出したときには、頭の中では構図もコントラストもほぼ仕上がっていて、あとはシャッター・チャンスに賭けるだけ。従ってまわりに何十人のファンが居ようとも、あとから降りようとも、撮影ポジションを決めるのは素早いです。まずトップ・ファイヴには入ります。皆が三脚など伸ばしているうちに、構図の点検も終えてカメラを下ろしています。そして、人の悪い事に、周囲が構図や光線の読みで、すでに失敗しているのを、そ知らぬ顔で眺めています。(これがツアーの楽しみ)

鉄道写真の失敗とか、うまく写らない、とかというのは、8割以上はポジション選びで、すでに失敗しているのです。

スペースに余裕のある時は前後左右50cmぐらい動いてみることもありますが、結局最初の直感で立った位置がベスト、という結論にまず落ち着きます。手前の草の重なりとか、バックの樹木との関係とか、遠景の山の稜線のキリの良さ、とか、列車写真を撮るベスト・ポジションって、野球のキャッチャーが構えをずらす範囲より狭いぐらいですね。

列車写真を撮るときには三脚は絶対といっていいほど使いません。もう40年、使ったことはないと思います。カメラを三脚に固定すると、列車や煙が画面からはみ出すのを怖れて構図が萎縮したり、シャッター・チャンスが粘りきれなくなったりするからです。

その代わり、列車の移動につれてカメラ・アングルをずらしながらもファインダーの四隅だけは無意識に見ているようです。どこかの角とか線とかに絵の一番手前の隅が揃えてあるからです。

シャッター・チャンスの見切りはまず車体の反射、蒸機列車の場合はそれと煙、蒸気の流れの延び具合の組み合わせですね。これはファインダーを落ち着いて見つめていると、じわじわ変わっていくのが見え、次の変化が予測できますから、見越しでシャッター・ボタンを押し込んでいけばベストの瞬間にシャッターが落ちます。

見えたからシャッターを押すのではなく、見える何百分の1秒か前に、次の瞬間を予測してシャッターを押し始める、という感じなのですが、これは慣れれば体がそう反応するようになります。

こればかりは動画から抜き出すのならいざ知らず、秒間コマ数一桁の自動連写でも偶然が当る確立は100%ではありません。私のように運動神経の鈍い身体でも、神経の伝達の速度たるや、まさに畏るべし、です。

「煙や蒸気の動きを読む」という点で、むしろ難しいのは夜景の撮影です。これはデジタルカメラ時代の今日になっても、画像の荒れとか、光芒がきれいにまとまるレンズの絞り値とかの制約で、相変わらず何十秒かはシャッターを開けておかねばならず、その間に煙や蒸気は動くわけで、それが上手く流れてくれれば幻想的な美しさになってくれますが、風向きで悪く巻いてしまえば、すべてが台無しになってしまうわけで、辛抱強さが求められます。

こちらはどうしても三脚の世話になるわけですが、大体、車庫、それも蒸機の庫というのは暗いのが相場で、肉眼でもよく見定めが利かないところを写そうというわけですから、邪魔物が画面に入らず、水平も狂わず、絵としてきれいにまとめるのには、昼間の列車写真以上に落ち着いた観察が必要です。

今回のツアーでは夜景の撮影会が四晩もあって、場所も一晩目は標高3000mのクンブレス駅、二晩目はチャマ機関庫、三晩目、四晩目はデュランゴ機関庫と盛り沢山。おかげで宿へ入るのは毎晩23時過ぎ、朝は連日5時起き、というハード・スケデュールでした。

「ナイトフォト・セッション」と称して、毎晩、大型発電機を構内に持ち込んで、機関車をライトアップしてくれるのが売り物でしたが、なにしろ暗闇のなか、何十人もの参加者が三脚を担いで右往左往しては何十秒かの露光を繰り返すのですから、ぶつからないよう、重ならないよう、動くのは大変です。

しかも、巨漢揃いで、なかには動作の鈍い、ほとんど未経験者もいます。こちらが写している前に平気で入ってくるは、いつまでもどかないは、で最初はいらいらしましたが、しばらく観察していると、米国のファンは概してオーソドックスなアングルで撮りたがるので、少し離れた場所から、中望遠で狙うような場所には、あまり来ないのです。それから、ライトアップの光線を純光で使おうとする。(これは、実は黒い機関車がバックに埋没してしまうので得策ではない)

そういう習性を逆用して、三晩目のデュランゴ庫で、ほとんどの撮影者は機関車間近に群れているのを遠目に、誰も来ないターンテーブルの反対側から狙ったのが今日ご覧いただく一枚です。

画面中央、煙室扉に片寄せて複式コンプレッサーを吊ったのがアルコ製のK-28クラス。もともとは快速旅客用。両脇のボイラーの太いのがボールドウィン製で重貨物用のK-36クラスです。

ターンテーブルがK-28に一直線に向いているのを幸いに、シンメトリーの絵を作ってみました。リオ・グランデ鉄道の3フィート・ナローが盛んに活躍していた往年の光景が偲んでいただけますでしょうか?

K-28は私が中学生の折、鉄道模型社に国内分売が出た、という情報に飛んでいって手に入れた最初のHOn3モデルでした。当時はまさか遠い将来、こうして実物とじっくり過ごす晩がこようとは、それこそ夢想だにしませんでした。

晩秋だったか、初冬だったか、模型社を出たときは駿河台の向こうに陽が落ちていた中、やっと手に入ったK-28を抱きしめて地下鉄の駅へ向かったのを昨日のように覚えています。あれから47年か48年か?長かったような、あっという間だったような‥ただ、望みをはるかに超えた、自分でも信じられないような展開だったことは確かです。ここまででも十分にお釣りの来ている人生ですね。

K-28を前にしても、単なる実物ファンだったら、この感慨は涌かないことでしょう。やはり模型あればこそ、です。ロッキーの初秋の肌寒さもむしろ快いぐらいの夢見心地で、その幸せを噛み締めた夜でした。